盛岡歴史散歩 志和稲荷街道 umenai

盛岡歴史散歩 紫波町編

今回は盛岡城下から紫波町の志和稲荷神社へ続く
「稲荷街道」と志和稲荷神社周辺を掲載します。

志和稲荷街道は江戸時代、盛岡藩第12代藩主、南部利済が志和稲荷までの
参けい道として整備させました。

今でもその街道沿いには距離の目印でもある
一里塚や当時の石碑などが道沿いには現存しています。
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下の写真は矢巾町にあります、林業技術センター東側に位置しています。
12間幅の松並木道が今でも残っております。
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なんやかんやで志和稲荷神社へ到着。
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志和稲荷神社拝殿。
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志和古稲荷神社。
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創建、由緒については割愛します。

志和稲荷神社周辺は水田が広がるのどかな田園風景となっています。
ですが、その昔は稲荷神社周辺を流れる滝名川をめぐって稲荷神社前では
農民同士が我田引水の騒動があったと言われています。
通称、志和の水喧嘩。

干ばつ時に水田に引く水をめぐっての争いであるが、
一言に喧嘩と言っても生易しいものではなく、
住人同士が鎌を持ち、石を投げあい、時には死者まででる、住民総出の
まさに命がけの喧嘩であったそうです。
志和稲荷神社の門前には、その喧嘩の際の投石によって耳が欠けたという
「耳欠け狐」があります。
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大正時代の岩手日報
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それから昭和27年になり、この水喧嘩を解決するために、
山上に位置したところに「山王海ダム」が建設され、長きに渡って続いた
水喧嘩が解決されることとなりました。
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永遠に水争いが起こらないことを願うという意味を込めて
ダムには平安という文字が付けられています。

しかしこのダムの建設にあたっては、生活を犠牲にした方達もいらっしゃいます。
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このダムの水底に沈んでしまった村には家々があり、学校がありと
少なからずそこで生活していた人たちがいました。

人々の生活がなくなり、山の中に忘れ去られたかのように佇む神社跡の石碑は
どこか寂しげで。。。
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ゆっくり眠っていた元場所はすっかりダム底に沈んでしまい、
今では別の場所に引っ越しし、寄り添うように道の脇でひっそりと建っている墓々。
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訪問日:5月10日

おしまい
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by bombo0714 | 2015-05-11 10:50 | umenai | Comments(0)

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